というわけで、

http://www.miyadai.com/texts/azuma/index.php

の感想、といいますか。。。

存在論的に「ただそこにある」ことしか説明し得ないし、十分だ、というのならそこから一歩進んで認識的に因果関係―何故、如何にあるのか―を、それが論理的だからという理由で問題を排斥したことで、解決したというのは、ホワイトヘッドなどの言うことによくありますが。。
これも一部先ほどの郡司先生の本の中のクオリアに対する解決―そういう視点を変えることによって、うまくできた手品のように解いてしまう解決のようで、一瞬詐欺的に見えてきます。

ひとつ疑問―東氏の言う、問い得ない特異を持つこと―ですが、こういう超越的視点を、たとえば脱カルトのような場合に外側から視点の転換をさせることは可能でしょうか。
まあ問題を含んだ理解だと言われることは覚悟して、いいたいことは特異点を持たざるを得ない、それを先天的に備えているといえる様な人間の認知についてはどう答えを見出せばいいでしょうか?
聞く耳を持たない人間に聞かせることはできないわけですし。

もし、池上論文のいうJA論文のように、予想不可能性を予想することによって一種間主観性の場が形成されるとするならば(この言い方はメルポンぽくて古臭くて嫌なんですけど。。。必要十分が逆になるからです。
これを意味といってもいいかもしれないのですけれど、この意味は問い得ない特異点だからということではやはり説明はつかないのではないか、ということです。
「語りえないことには沈黙しなければならない」というのはヴィトちゃんのことばですけど、因果については手放せない人間にそれは語りえません、というのは難しいことだと思うのですが、如何でしょう?