疲れが全然取れません。

KAPIBARA2004-02-12


もう何も喋りたくないし、話したくないし、出掛けたくない。

夢は捨てるべきだろうか?

疲れた、かな?

これでも随分回復したのです。

砂粒のような意識を夢中になって追いかけましたが、もう若くないので

どうしようかと思案中です。

感じたことはすべて無駄だったと分かるのは、哀しいこと。

哀しいことですが、本当です。

取敢えずもう馬鹿にされるわけにはいかんからねえ。。。

この疲れる感じ、というのが、まあなんというかじりじりコンクリの壁に

ハートをすりおろされているような、そんな疲労感です。

人生や価値や自分に、どうしょうもなく疲れを感じる。。。

私はこの人生のうち何回もこうして疲れ果てて、日暮れの砂丘みたいに

へとへとになって倒れることが多いのだけれど

これも何でだろうと思う。

「我」の強さをもう散々にこの間は言われまくったのよ、

そんなの分かっておりますがな、自分でも十分に。でもしょうがないじゃないですか、そうなんだから。

私は息抜き、とか遊びが下手なほうなので、余り楽しい趣味もないし、

デズニーなど行く気も起きない人なのですが、

この疲労感は、何なのだろうと思う。

猫とかいると楽しいだろうなーノルウェイジャンフォレストキャットがいいなーとか思う今日この頃。

それでも目を開けるのも嫌だ、という日々は抜け、健康になりつつあるようです。

  • それでもこころがひりひりしているのが分かります。
  • 寝ます。取敢えず寝ます。寝れるときに寝ることが一番のクスリです。
  • 日々生まれる感覚に対して「何故?」と問うてはいけない、ということなのでしょうか?自然な問いは人生を潰すと教えられたようですな。。
  • わたしはきっと「問い得ない問い」、「存在への問い」を問うてはいけない方法(多分学問かなあ)で追おうとしたので、死に掛けたようです。

まあ別に死んでもいいので(その割にはくたばらない身体ですが)
それはそれで幸せだとも言えます。

  • この感覚はたった一人で貴船から鞍馬へ山越えをしていく心境と同じようなものです。
  • 学問はあくまで「見方」を強制します。それはどんなものでもそうです。

たとえクーンなどを簡単に持ち出しても、そうそう実態は変わらないのではないでしょうか?

  1. 写真はルーブル宮。ヴァロワの思い出。イザベルアジャーニのマルゴ・ド・ヴァロワの物語を思い出します。去年行ったときはフリーダ・カーロの映画のポスターで持ちきりでした。