死刑判決

KAPIBARA2004-02-27

が出て、今日はどのテレビでももちきりでしたね。

今何故オウムに対して関心を寄せているか、というのは自分のこの10年余りとオウムの事件と軌跡が重なり合うからです、自分の中で。

私自身が「神秘様体験」に惹かれたのは確かだし、それによってある種「特別な感じ」があってのめり込んだのは確かだし、ちょうど其の頃挫折続きであったため何か救いを必死に求めていたのも確かです。

今回の報道を見ていて最後に考えたのは、宗教を人為的なものだとして理性で釈明できると思った、その前提を当然のごとく持つようになったのはごく最近のことで、もっと昔、フロイト精神分析が出てしばらくしてからも一般的な感情や思考、知性の中で宗教的なバックグラウンドはごく当たり前にあって、その残りの部分において学問や思考がある、という時代のほうがよっぽど長かったのだなということです。

この点、近代の哲学者、カントやヘーゲルの流れや彼らの思索を丁寧に追えば、宗教−神なるものから脱却しようとして、かつ脱却しきれない部分を終えると思うのですが、今は力不足で追えません。

24かそこらで神秘、に近い(個人的には重要な)経験が、おそらくこの世のいかなる知識も学問も経験も心理学も何もかも包含しつつ、常にそれらでは表されきれない、そして表のそうした知識では決して評価されえないものだということに、つまりそれらの本当の意味を知るのに非常に時間がかかるし多くの人生上の体験が必要だということが分かりませんでした。

そういう意味で、今回の麻原に対する判決はいままでの自分自身の軌跡と合わせ、今までの振り返るひとつの節目になったような気がしてなりません。
私自身が誤った原因としては、簡易なマルクス主義とも言えるような形で、宗教的な感覚、その一般的な感覚や意味合いが理性や科学主義で解明できる、人為的なものなのだということを無条件に無反省に前提に置いていた、ということです。

キリスト教を信仰し、宗教に対する裁判権の範囲のような研究を卒論にし、原理主義を信奉する友人に批判的な目を向けながらも、自分のほうがよっぽど深い陥弊に陥っていたのかもしれません。多分そうでしょうが。
だからといって、原理主義は肯んぜられないけれども、だからといってどうすればよかったのか、という点では他にとるべきよりよい方法があったのかは分かりません。その意味でトラPのような考えが必要だったし、社会的に需要があったのは分かります。
そして心脳問題やクオリアに興味を持った自分がいたことも。

オウムの前例があったからこそ安易にカルトや修行に嵌らなかったものの、趣の違う代替物、例えばユングなどに傾倒したのも当然といえば当然でしょう。
 はっきり言えばこれらの方が自分にとって現実味があった、勉強の砂を噛む様な空虚さに比べればよっぽど面白かった。
オウムの事件の経緯と今回の判決にまつわるいろいろなことを見てみれば、結局こころの時代と言われながら、何にも空虚さは埋まっていない、という気がします。

  • 補足ですが、やはり精神鑑定を麻原に受けさせるべきだという報道が4CHあた

りでは在りましたね。TBSではカナリヤの会の弁護士さんが「みな普通のいい
人ばかりがオウムに流れていった、宗教というものがあればいいと思う」と言
っていましたよね。空気のように普通に宗教-宗教的な感覚、神的なもの超越的なもの自分を超え自分を規律し、自分と話すことのできる何かを前提とすることができない社会、これがやはり間違いのような気がします。
間違いといってもことさら今何か宗教を復活させようとはできないと思うのですが。。。。

 この点、やはり、天皇制と絡んで戦争に突き進んだ反省と、その点を分析し重視したGHQの影響で作られた日本国憲法に基づいて、宗教法人に対しては非常に甘かった、忌避しすぎていた司法や警察については考えたほうがよいかもしれません。だからといって憲法の規定がよくないというわけではないですけれども。