松本智津夫

に対する判決が今週金曜に出るのでテレビでもその話題がもちきりです。

今日は再現ドラマをやっていましたね。
母などは「どうせ真実じゃないし」と言っておりましたが、
多少偏りがあるにせよ、なるべく真実を伝えるように再現した。ということですし、再現フィルムも多かったので勉強になりました。

精神世界云々を知りだしたのはこれ以後ですけれど、よきにつけ悪気につけわたしたちは「オウム以後」でしかないので、やはりオウムには注目しないわけには行きません。
と、個人的には思っています。

日曜日のNHKの特集でも思ったのですが、判断を他人に委ねたことがよくないとは言っても、そんなことが実際今のわれわれに耐え切れるのだろうか、疑問に思いました。
NHKの場合、洗脳とも言える極限状態の中で実行を示唆されたとしても、「尊師の言うことだから」という理由で拒否はできなかったのか?ということが何遍も問われていました。
このことは江川紹子のサイトの裁判傍聴記でも言われているのですが、この一見「道具性」とも言える本人の自由意志の問題、は結局裁判で問題にされることはなかったようです。

宗教心と帰依の問題とマインドコントロールを一緒くたに論ずることにも注意が十分必要なのですが、人間に宗教心と言うものが自然に備わっているとして、その疑問が顕在化してきた場合に、「信」や帰依の独善性が扱いを慎重にしなければ危険だということをわれわれはどうやって前もって知りえただろうか?という疑問です。
そのことと判断を他人に任せ、自分で責任を取らない、或いは自己の中心を敢えて空洞にしそこに何者かどこかいづれかの他者を反映させるということを実は私たちは普通にしていて、通常というかより宗教的な社会ではそこに神がいるような位置に自分を置くことなどわたしたちはできるだろうか、あるいはしてきただろうか?という疑問があるわけです。

こんな疑問があるからこそ、無条件に精神世界どっぷりだとか、何かハイアーなセルフを無条件に受け入れたりすることもできなくなっているのですが。
たしかにオウムに感じている不安−自分にも同じようなところがあると感じるゆえの不安−にはさまざまな分岐点があって、その不安というのは一部近親憎悪に似た、部分的にしか重ならないものだろうとは思うのですが、超越的な或いは宗教的な感覚や感情を直視するのにそれが邪魔になってしまう、という点は私自身にははっきりあります。

裁判でこの自由意志の芯のところまでを扱わないのは(少年事件で家裁捜査官や精神科医の鑑定があったり39条関連(訂正、36では正当防衛になってしまう)で責任能力の問題になることはともかく)結局のところまったき誰のものでもない自分自身の意思というものが存在しないことの逆説的な証明なのかもしれません。
実際こんな問題は法律で扱えることの範疇外でしょう。

カルト資本主義という言葉があったように、この社会は多かれ少なかれ操作し操作されています。自分は何者にも操作されていないと思うことはある意味幸せなことですが、本当に「超越的」なものも含め何者かに操作されない人間なんているのだろうか?と思いますです。
この点面白かったのが「バカの壁」で養老猛司が言っていた「考えること、学ぶことは本当は非常に厳しく辛い事なんです」という話でした。誰かにあずけないで考えることは実は非常に厳しい、そうだと思います。

ただ難しいのは、こうやってやせ我慢のように何者にも頼らないつもりで考えていると、しっかり神経症抑うつになる、ということです。
わたしが証明します(笑)

あと疑問に思うのはオウムが目指した「神秘体験」というものの中身です。
これはいつも言っているようにいかに不可思議で圧倒的な体験の表層が同じであっても本当の悟りとLSDで見せられているものというのは後付けの「気付き」認知の方がよっぽど重要なわけだから、その嘘にどうして気がつかなかったのか、そして彼らが求めた「神秘体験」とは実際にはどんなものだったのだろうか?ということです。
例のサイキックな体験、超能力、というものかもしれないし、宇宙の根っこに繋がるような瞑想体験なのか自分が空中に浮かぶような視点の移動のことなのか、疑問が残ります。
それを大学院で素粒子物理をやったような人や心臓外科医だったような人がどうしてその科学的な誤謬を見抜けなかったのか、というのが非常に不思議でもあります。